北大祭の話のはずが妙な具合に膨らんで
北海道大学の北大祭。
主催団体の全学実行委が祭での政治、宗教に関する活動を行わないと決めたと、今日の新聞に書いてありました。
まぁ、それそのものは置いといて。(実際には勧誘が激しすぎるとのクレームに対応しただけらしいので)
この記事、違和感があったのは先生側の主張。
海外の学生はがんがん政治について議論するのに、日本はどうなってしまうのか?
なんて言ってます。
『海外の学生』っていうのは具体的にどの国のどの生徒のことを指すのでしょうか?海外の学生というあやふやなモデルと自分が指導する学生を較べてしまうこちらの言い分の方が、どうにも主体性を欠いた物言いのように思えてなりません。
これじゃただ、私は学生を指導する力はないけれど問題捏造して危機感持ってるインテリですよってアピールしているようにしか。(苦笑)
そもそも政治が学生に敬遠されるのは、若い世代の闘争心の欠如もそうですが、今の日本に語るべき政治がないということもあるのでは?機動隊に体当たりするぐらいの主張が必要なほどの絶対悪としての価値が現行政治にない。自分たちが自分たちの立ち位置で何を議論し、主張したところで『どうせ通るんだから悪あがきするな』と平気な顔して若手議員を潰してしまう元総理の態度に集約される、何を言っても結局実弾の撃ち合いなんでしょ?っていう閉塞感。
子どもの頃からあんなの見せられてたら、そりゃ興味なくすって。
魅力的な大人がいない。
議論はすぐに頭打ち。
面白くないものに人は興味を持ちません。
上に書いたとおり、実際のところ少なくとも日本国民には政治に対して主張する権利、権力なんか与えられてないですし、少なくとも思想面でのヒエラルキーは明確に存在してる。これは漠然としたあきらめムードが蔓延する理由の一つだと思う。しかし一方、例えば日本のブログコミュニティの中では政治、宗教の話題はタブーだという主張もあったりするらしく、そういう人はワザと自分から思考停止して下層に出向いている感もあるので、この点においては某『女性の代表』のように『権力者だけが悪いのよ!』なんて一方的に糾弾するわけにはいかないでしょうけど。
結局、この双方向からの封建主義依存から未だ抜け出せないのは何のせい?
政治?
教育?
歴史?
あるいは抜け出さなくても良いのか?
停滞を打開するにはヒーローが必要。なんですが、そのヒーロー像に世代間でかなりのギャップがあるから、創りだされるヒーローのことごとくが若い人間にとって失笑の対象にしかならないというこの無辺の悲しさ。
通り一遍(うわべだけで誠意のない)の主張を担がされた若大将みたいなのを差し出されてもっていう。
最近では自民推薦を得られず北海道一区からの出馬を断念したあの人なんか良い感じに的外れ。なんだけど、それでもがんばってるっぽいから一瞬応援してあげたくなるっていう頼りないあの愛玩動物的魅力は何?
まぁ。
あれはポーズで、主張も的外れで、必ずいつか裏切られるから応援なんかしないけど。
おお。
話がすげぇズレた。
祭は祭として素直に楽しめるようにするのがいいんじゃない?って方向に行くつもりが・・・。


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