2012年5月20日 (日)

バイエルンvsチェルシー(CL決勝)

眠たい試合だった。
バイエルンはウイングの個人突破一辺倒。チェルシーはリトリートからのロングカウンター一発。英断なき泥試合。アリアンツ・アレナの豪華絢爛さばかりが印象に残った。

実況青島「リベリーはなんであんな怒った顔をしていたのでしょうか」いやあ、それは彼がフランス人だからに決まってるでしょう。あれが他国人には理解不能なフランス人流のメンタルだ。関係ない喧嘩に巻き込まれた身分ながら、最大の戦果を挙げてしまうムルソーの血脈を見た。僕の中では【フランス人=青筋×激情】という方程式が編まれつつある。

CFゴメスがワースト。ドログバは腐ってもワールドクラス、大舞台で何をすべきか理解していた。延長戦のPK献上も、言わば献身の現われだった。比してゴメスはローカルクラス、そこに甘んじているという素振りが顕著だった。ボールが収まらない、かつ動かない。じゃあお前はそこで何ができんの?っていう。CBの間にふらふら立って、クロスボールを見送る作業。それでいいなら僕でもできる。フィールドに立つ人物がよしんば(?)僕でなかったとしても、同サイドスペースへの走りこみ+プルアウェイ、誰かがその犠牲を厭わずやっていれば、バイエルンは優勝していたはずだ。あんな一本調子なら僕でも・・・(以下略)。

2012年5月17日 (木)

旭川ひき逃げストーカーに懲役4年(求刑5年)

 女子高生をひき逃げして死亡させたとして、自動車運転過失致死などの罪に問われた北海道東神楽町、土木作業員、岩倉智弘被告(36)に旭川地裁は16日、懲役4年(求刑懲役5年)の判決を言い渡した。被害者を放置したまま行った別の女性に対するストーカー規制法違反罪も有罪認定した。

 判決理由で佐伯恒治裁判官は「被害者を路上に置き去りにして逃走したのは身勝手で卑劣。ストーカー行為をしている点も悪質」と指摘した。

 判決によると、岩倉被告は昨年9月25日、旭川市の交差点で赤信号を見過ごし、同市の高校2年の女子高生(当時16)をはねて逃走、20日後に死亡させた。また事故後、被害者を救護しないで、同市の別の女性宅を訪れるなどしてストーカー行為をした。〔共同〕


日本経済新聞より抜粋(被害者の名前は当方の判断により伏せました)

無体だ。岩倉は飲酒運転を隠すために飲酒してから出頭したとも言われている。さらにはひき逃げ事件で拘留中、ストーカー被害を受けていた女性に対し、「出たら会いにいく」といった内容の脅迫文を送りつけもした。このように卑劣で悪質、しかも再犯予告付きの悪漢に下された判決は、懲役4年。判決理由がコピペ過ぎてげんなりする。罪状は自動車運転過失致死。【過失】とは誤りや失敗のことだ。運転失敗の結果として彼女は死んだのか。いや違う、そうじゃない。瀕死の女の子を放置して逃げる、そこには明確な意思がある。隠蔽工作するという明確な成功への思惑。岩倉が成功を求めたその結果として、彼女は死んだのだ。これは過失による致死ではない、思惑による致死だ。いや、致死と呼ぶことすら生温い。自分の利益を護る過程において、他の誰かが死ぬのは構わないという意思が明確なら、それは殺人と呼んでもいいんじゃないか。遺族の怒りは隅々までが正当だ。岩倉が抱える火力、悪意の総量は常軌を逸している。こんなにもあからさまな悪意を、法は簡単に見逃す。法律家に市民を護るという観点はあるだろうか。前例の奴隷になっているのではないか。

法は等しく裁くためにあるのか、いや、法は等しく生きる場所を護るためにあるのではないのか。蔑ろにされるのはいつも被害者、遺族。犯罪者への手厚い加護はときに限度を超える。社会は犯罪者が更生するための介護施設なのか。(重)犯罪者が立ち直りを赦されるのは、被害者、遺族が立ち直ってからなのではなかろうか。被害者、遺族が赦したときから、刑を執行するのが妥当ではないかと僕は思う。大事は犯罪者が反省する意志を持つかどうかじゃない、遺族が赦す意志を持てるかどうかだからだ。

2012年5月15日 (火)

岩崎夏海という拗けた感情

岩崎夏海が【小説の読み方の教科書】という本を出していると聞いて苦笑。【もしドラ】は小説ですか、ははあ、僕はてっきり低年齢用のくだけた解説書だとばかり。ブログがあるとのことなので、さっそく読んでみた。

【障害者への理解が進まない理由を考える】
障害者だって、一緒である。身体障害や知的障害は、ぼくが野球ができないのと一緒なのだ。ぼくは、いわば「野球障害」だ。野球が満足にプレーできないのである。その分野で劣っているのである。

それは障害の所為?
つか、自己憐憫でしょう、それって。「障害があるから大成しなかったのだ、かわいそうな子」。は?いやはや、なんという幸せ回路の持ち主だろう。僕は断言したい。プロ野球選手として大成した人たちは、誰よりも努力した人たちだ。彼らの中には僕より運動神経のないプロ野球選手も多数いるだろう。しかし僕の力は彼らに劣る。野ざらしの才能は継続と努力に勝てない。才能は育てるものだ。与えられたものが全てじゃない。
その分野で劣っているのである?確かにそれはそのとおり。しかしそれは「野球障害」のせいなどではない。努力不足だ。意志することを諦めただけだ。彼のこの物言いは、努力し続けている人間の価値を損なうものと僕は思う。

そのことのコンセンサスが進めば、障害者に自分勝手なレッテルを貼る人は少なくなると思う。

レッテル
レッテル貼りから人間は逃れられない。人間の生は個々に多様で、必死という法則だけを頼りにかろうじてつながっている状態にある。僕らはどこまでも個だ。考え詰めれば詰めるほど、個であることに絶望していくしかない(とは少々大げさか)。だからどこかで分かりやすく分類しておかないと、僕らの脳はあっという間にショートしてしまう。つまりレッテル貼りは人間が効率よく生き抜くための機能なのだから、少なくなるなんてことはないだろう。耳目にやさしい新たなレッテルが増えるだけだ。それすらも次世代には否定される運命にある。僕らは常識を疑い、ときには足並みを乱しつつ、更新を続けるほかない。

全ての自分勝手が克服された世界は、伊藤計劃の小説【ハーモニー】で描かれた最終世界に似ているのかもしれない。一枚のレッテルに世界は被いつくされ、意思は消える。それを天国と呼ぶならそうなのだろう。

2012年5月13日 (日)

プリンセス・トヨトミ(映画)

原作未読。

あれ?という感じ。エピソードのひとつひとつがかみ合うことなく、バラバラのままに終わってしまった。緊張感のある出足だっただけに惜しまれる腰砕け、腰骨大崩壊。たこ焼き屋のあんちゃんに玉木宏とか、散りばめられた小ネタは面白かった。

ラストの会談
同僚に【鬼】と呼ばれるほどの堅物である松平が、あっさり【負け】を認めるほどの出来事(内容)だっただろうか。僕は首をかしげた。子が抱く父性への(多大な幻想を含む)信仰というものは諸刃だ。神の如き父から、あのように酷い騙し討ちを受けた中年男が、あの程度の演説ひとつ聞いたぐらいで、若き日から抱え続けた恨みをあっさり棄てられるものなのか、どうも納得がいかない。年月を重ねれば重ねるほど、閉ざされた感情というものは腐れてゆくものだ。中年こそは地球上でもっとも意固地な生物である。

大輔&姫エピソード
必要性すら疑わしい。物語の中核に絡むのかと思いきや、ほとんど語られずじまいときた。勝手に成長して、勝手に終了。なんだったの、彼女らは。

銃撃
映画では松平が撃たれたが、あれでは会計検査院が過激派に屈したようにしか見えない。原作の仕掛けを排除したせいで単なる暴力、暴発という意味にしかならなかった。削るならいっそのこと、シーンごと削るべきだったように思う。

大阪全停止
中年以下の男子、および女子全般は普段と変わらない生活をしているはずなのだから、繁華街から完全に人がいなくなるのはおかしいよね、と。これで完全に冷めてしまった。

2012年5月12日 (土)

蛇にピアス再読

先日の友人との会話。
友人 「蛇にピアスを絶賛してなかった?」
僕  「いや?むしろ僕は酷評したと思う。暴力性とか過激さとか、表面的なものを評価されて受賞したんでしょ、あれは」
自身の発言ながらどこか違和感があり、【蛇にピアス】を再読。

誰もが抱えている(であろう)生き続けることの痛苦、他人を骨の髄まで掌握、所有したいという欲望。それらオーソドックスなモチーフが、正直な文章で表現されている。ストーリーは単純。それを追うだけの読者なら確かにこれはつまらないと感じるだろう。しかし、それはつまらない読書だ。純文学は文章そのものを絢爛豪華に着飾るが、この作品はそれをイメージで叩き込んでくる。右脳直撃。速読を避けるべき作品。

というわけで、やはり勘違い。
人間の記憶というものはげに恐ろしきものなり。どういうわけか、読まずに通ぶっていた若き日の言葉が、読書評としての記憶にすりかわっていた模様。過去にブログで賛辞を贈っておりました。

蛇にピアス

«沈黙 遠藤周作

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